漁港好き

小田原の漁港へ。

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魚市場とか、漁港が好きだ。
働く人がいて、特殊な機械や道具があって、生き物がいて、食べ物がある。
私の好きな要素が詰まっている。

訪れたときはちょうど、フォークリフトを使って水揚げされた魚をコンテナに均等に入れているところで、
その操作の巧みさや、ピカピカに光る大量の魚に目が離せなくなった。

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魚市場内にある食堂で早めのランチ。
私たちは並ばずに入れたけれど、正午が近づくにつれ、あれよあれよという間に30分待ちぐらいの列ができていた。

今度はどこの漁港に行こうかな。

『あのこは貴族』

「東京にしかいない人種を描いた」というふれこみに惹かれて読んだ本。

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何ヵ月か前に日経の記事で、地方出身の作者が「東京に住んでみないとわからないことだった最たるものが、東京には貴族がいる、ということでした」と語っていたのを読んで、俄然興味が出たのだった。

すごい、わかる、と思ったから。
東京に住んでみないとわからなかったこと。
いろいろあるけど、「東京にしかいない類の人々」って、確かに存在するのだ。

かつて六本木近辺で働いていた頃、その類の人々と袖振り合う程度のことがちょくちょくあって、とってもとっても興味深かったのだ。

「ああ、日本は格差社会なんかじゃなくて、昔からずっと変わらず、階級社会だったんだ。つまり歴史の教科書に出てくるような日本を動かした人物の子孫は、いまも同じ場所に集積して、そこを我が物顔で牛耳っているのだ。/こんなことは東京で、その世界の住人たちと接触しなければ実感できなかったものだろう。世の中がこんなにも狭い人間関係で回っていることは、自分のような庶民には実に巧妙に隠されている」

やっぱりそうなんだなぁ...と、この本を読んで思った。
もしかしてそうなのか?と薄々思っていたことが、やっぱりそうだったんだ...と。

地方、というより東京以外へ行って、そこで暮らしている人と接したり、自分がそういった場所で暮らしていた頃のことを思い返すたび、
東京の、ごく一部の「貴族」たちの見えている範囲だけで政治や経済が動かされていること、
そしてそのことをほとんどの日本人、東京在住以外の人が知らずに生きていることに、なんとも言えない怖さを感じる。
いや、怖さというより不気味さというべきか。

ただ、この本自体はそういった怖さを直接に描いたものではなくて、アラサーの女性たちを中心としたリアルな描写が多くて、とってもおもしろい。
落としどころもなんだかすごく納得できる感じで、
正直そこまで期待せずに読み始めたのだけれど、同じ作者の別の本も読んでみたくなったのだった。

感動の再会

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一時保育のお迎えまでちょうど小一時間あったので、お気に入りのカフェでランチがてら、ひとりボーッとする貴重な時間。

お迎えに行った息子は、私の顔を見るなり顔をパーッと輝かせて、保育士さんの腕からワサワサ這い出て、あっという間に私の膝によじのぼってきた。
可愛くて可愛くて、保育士さんの前なのに思わず「かわい~~っ!!」と抱き締める親バカ母。

だけど思えば、こんな風に息子が愛着を全開にし始めたのは、ここ1ヶ月ほどだ。
先月の一時保育のときは、お迎えに行ってもなんだかキョトンとしていた。

毎日おんなじようでいて、赤子は毎日成長している。

ここは天国

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急に秋めいた週末。

夫の友人主催のBBQに子どもを連れて参加するつもりが、急に始まった喉の腫れがひどくて私だけ行くのを断念。

出産してからというもの、以前にない頻度でいろんな感染症にかかっている。
インフルエンザ、咽頭炎、からの急性中耳炎、そして今回結膜炎(?)に、またまた咽頭炎

また悪化して中耳炎になっても困るので、おでかけ日和だけど家でゆっくり休むことにした。

湿度の低い秋の空気の中、
家でこんなに長くひとりでゆっくりできる時間なんて、いったいいつぶりだろう。
ここは天国かと思った。

夏の終わり

友人一家と、初めての子連れ旅へ。

450㎞離れた互いの住まいの中間地点を取った、山あいの村のコテージ。
ずっと場所がなくて家で寝かせていた花火「ナイアガラ」が、ようやく日の目を見たのだった。

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独身時代最後の旅で手に入れた花火。
その頃にはいなかった自分の家族と、
その頃より増えた友達の家族と。

今年の花火はこれにて終了、かな。

『坂の途中の家』

保健師の知り合いに勧められて読んだ本。
読みごたえのある一冊だった。

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主人公は、乳児虐待事件に裁判員としてかかわることになった、小さい子を持つ主婦。
裁判経過に伴って自身の家族をふり返らざるを得なくなっていくのだけど、
そのふり返っていく過程の心理描写とか、被告である母親が追い詰められていく過程とかがすごくリアルで、子どもを育てていない作者(たぶんそうだよね?)が、よくここまで書けるなぁと感心してしまった。

「夫からのサポート」ということについて思うのは、「子育てのサポート」ではなく、あくまで「(子育てしている)妻のサポート」が求められているんだ、ということ。
「子育てのサポート」って言ってしまうと、直接的に子どもに関わればいいって勘違いさせてしまうけど、たぶんそうじゃないのだ。

子どもの直接的なお世話はもちろん助かる。
だけどそれは妻が求めている場合に限るし、もっと言えば、妻が求めているサポートが他のこと(妻が家で休めるように子どもを連れ出してくれるとか、自分の食事のことは自分でするとか)であれば、子どもの世話よりそちらの方が優先になる。

「運転の練習をしている人」のサポートに近いかもしれない。
代わりにやってほしいわけじゃない。
それよりも、道を一緒に確認してくれたり、話しかけてくれたり、余裕がない運転手の代わりに周囲の危険を確認してくれたり、時々マッサージしてくれたり、運転手が気づかず疲れているようだったら休む提案をしてくれたり、すると助かる。
そして、運転を代わってほしいときもあるから、そのために自分も運転はできるようにしていてほしい。
サポートする側が「時々は自分が運転したい!」ってなることもあるかもしれないけれど、それは「運転の練習をしている人のサポート」とはまた別物だと考えた方がいい。

そんな感じだろうか。

そう思うと、それも子育てに似ている。
子育ても、子どもの代わりに親がやってあげること、ではないもんね。

なんだかマトリョーシカ

すいすいミング

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期間限定で、市民体育館の水泳レッスンに行き始めた。

ジムのプールに通っていたのはもう5,6年前。
もともと大して泳げるわけでもないけれど、
さすがにブランクがありすぎるので、ビギナー向けのコースに通っている。

水泳が苦手なのは息継ぎのときに耳に水が入るからだ、と気づいて耳栓を買って以来、泳ぎに対する抵抗感が随分減った。
ひとりでマイペースにできる運動という点で、水泳は自分にとても合っていると思う。

ターンができないから泳ぐのは25mずつだけれど、
ジムに通っていた頃は、25mごとに自分の目標を設定して泳いでいた。
手の掻きを意識して。
次は伸びを意識して。
その次は肩のローリングを意識して。
そのまた次は腹筋を意識して。
ひとつずつやっていると何往復かがあっというまで、思ったより距離を泳いでいたりする。

レッスンでは、「力が抜けていてとてもいいです!」と誉めてもらえた。
習ったばかりのスカーリング(水を捉える動作)を練習していたら、成功の印であるきれいな渦が初めてできて、ひとりでおぉっとなった。

小さなことができるようになっていくのが楽しい、今日この頃。