大人の階段のぼる正月

コロナプラス乳呑み子がいる今年は、妊娠初期だった昨年に続き、自宅で年越しをすることに。

結婚して六回目のお正月。
うち何度かは自宅以外で過ごしたけれど、なんと言ってもやはり、自宅で過ごすお正月が一番楽だと改めて思った。
親戚や友達と会うのも楽しいけれど、場所の問題として、アウェイな場所で過ごすより、勝手知ったるホームでダラダラ過ごせるのが最高なのだ。

今年は授乳中で私がお酒を飲めないので、本格的なお節は注文せず、単品で食べたいものを少量買ったり作ったりして、ふだんは使わない器に盛り付けることで、新春っぽさを演出することにした。

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結婚祝いに夫の上司からもらった漆器のセットが、年々好きになってきている。
ただ器をそれにするだけで料理が映えるし、漆器は拭くほどに艶が出るらしいから、洗ったり拭いたりするのも楽しい。
自分ではなかなか買おうと思わない器だけど(←自分だったら、同じ金額で別の器を買ってしまうだろう)、上質なものだと、自分では見つけられなかった価値を教えてもらえたような気がする。
同じく結婚祝いに親友からもらった漆器の汁椀も別にあって、そちらはふだん使いにしているのだけど、それも使えば使うほど愛着が湧いて、とても大切にしているのだった。

漆器の良さって、若い頃には分からないものだなぁと思う。
昔、小学生の頃のある年末、親が奮発して漆塗りのお屠蘇セットをデパートで買った年があった。
なんだか特別な出来事だったので、それを買いに行ったときのこともなんとなく覚えている。
お歳暮の時期でもあった年末のデパートは、とても混雑していて暑かった。
そんな中、いくつかのお屠蘇セット候補の中からひとつに決めた両親が、ひと仕事終えたような高揚感を漂わせていたのも覚えている。
以来そのお屠蘇セットは毎年お正月に登場していたのだけど、見るたんびに親がその、蒔絵が施されたお屠蘇セットを愛でていて、当時はそんなもんかなぁとよく分からなかったけれど、今ならそれを愛でる気持ちが分かる。
というか、たぶんその聞きかじりの記憶があったから、漆器のどこがどういいのか、なんとなく今も感じるのだと思う。
そう考えると、子どもたちにいい器の記憶を持たせてあげたいなぁと思うのだ。

親がおせち料理をちゃんと作っていたお正月は、きっと今思えばそれほど長年ではなかったはずだ。
それでも、いくつかの料理は作り方を断片的に覚えているし、台所に漂っていた出汁の匂いや、大晦日とその前日あたりの忙しさも覚えている。
その記憶があるから、息子にも少しはそれを伝えてあげたいなと、今回少しおせち料理っぽく並べてみたのだけど、息子はちゃんと特別感を感じ取り「おしょうがつって、たのしいね!」と言ってくれた。

親戚にも会わない、家族だけのお正月。
去年はまだ豆粒ほどの大きさだった子が加わって、今年は四人で迎えるお正月になった。
ささやかながら、自分たちで用意したお正月料理を並べていると、あぁ、いつの間にか「用意してもらう側」から「用意する側」になったんだなぁと、しみじみ感慨深かった。

大人になるって、たぶんそういうことなんだろうな。