潮風読書

『火山のふもとで』から始まり、『沈むフランシス』『優雅なのかどうか、わからない』『光の犬』と全作楽しみに読んできた、松家仁之の新刊。

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これまでの四作の舞台は、軽井沢、北海道、吉祥寺、北海道、だったから、今度も東京か北国かと思っていたら、意外や意外、和歌山だった。

舞台は、東京から西に700kmほど行った、太平洋に面した温泉と海水浴場のある町。
初めは四国かなと思ったのだけれど、出てくる言葉が関西なので、和歌山だと分かった。
温泉と海水浴場だから、モデルはまず間違いなく白浜だろう。
主人公の高校生がそこで過ごしたひと夏が、彼を預かった大叔父の過去~現在と共に描かれる。
読み終わる頃には、自分もひと夏をそこで過ごしたような、海風に晒された日焼けの跡が残ったような気持ちになった。

私にとっては特に、主人公の高校生よりも、白浜という土地や、描かれた大叔父の過去が印象深かった。
関西の人にとっての白浜は、関東の人にとっての、館山とか伊東とかに当たると思う。
都心からのアクセスがあまり良くなくて、ちょっと鄙びた太平洋岸の保養地。
私も子どもの頃を含め何度か行ったし、アルバムに残っているたぶん最初の家族旅行は白浜だった。

若い頃に世話になった人が、和歌山に縁のある人だった。
とても変わった苗字をしていて、聞けば和歌山に少し似た地名があり、彼の父親は和歌山出身で彼の本籍地も和歌山だったそうだ。
お父さんが彼の年齢の割にはとても年をとっている人で、それはなぜかというと、実は父親はシベリア抑留から帰ってきた人だからなのだ、と話してくれたことがあった。

もうほとんど思い出すこともなかったその人のことをふいに思い出したのは、この本に出てくる大叔父が、シベリア抑留者として描かれていたからだ。
昔世話になったその人が一度何かの折に話していたところによると、彼の父親が年を取っているのは、おそらく彼の母親と結婚する前に一度別の結婚をしていて、シベリア抑留から帰った後に、だいぶ年下だった彼の母親と再婚したからなのだという。
そのときはシベリア抑留のことなんて何も知らなかったから「ふ~ん...」としか思わなかったけれど、今回この本を読んで、いろんな断片がつながった気がした。
と同時に、シベリア抑留について自分が何も知らなかったこと、直接知っている人の父親が当事者だったのに、全く興味を持たなかったことを、とても残念に思った。

四十代になって思うのは、子どもの頃「それってめちゃくちゃ昔の話でしょ」と思っていたようなことは、大人にとっては「つい最近の話」だったということだ。
たとえば、私の子どもたちにとってはもはや「教科書に書かれているような昔の出来事」だろう、アメリ同時多発テロ阪神大震災、「平成」の年号発表や消費税導入は、私にとっては完全にリアルタイムでの出来事だった。
「20年前」とか「30年前」という言葉の響きには、自分が子どもだった頃母親が「TVが出てきた頃はみんなで近所の家に見に行った」とか「ケネディ大統領が暗殺されたニュースを見ていた」と言っていた時ぐらいの時代がかり感があって、どうしても「20年とか30年前ってめちゃくちゃ昔の話でしょ」と思ってしまう。
でも、この間たまたま恐竜にハマッている息子に「ジュラシック・パーク」を見せてあげようと調べたら、それが30年近く前の映画だと分かって、夫と愕然としたのだ。
本当に、二人とも完全に計算間違いだと思ったもの。

そう思うと、まだ生きている人がいる限り、その体験は全然「昔」じゃないのかもしれない。
戦争も、シベリア抑留も。
数年前かなりの高齢で亡くなった祖母も、戦争体験者だった。
そういう人が生きている間に、もっと関心を持って、話を聞かせてもらえば良かったと思うけれど、結局のところ、昔のことに関心が出てくるのはある程度年を取ってからなんだよなぁ、とも思う。

小説の中の白浜は、昭和の白浜だった。
今はどんな感じになってるんだろう。
和歌山、今けっこう行きたい場所リスト上の方だったりしている。