聞くように読む古典

図書館で数ヶ月待ちだった予約本が回ってきた。
ミュージシャンでもある作家、町田康による『口訳 古事記』。

古事記』には学生の頃何度か挑戦してみたものの、数十ページも行かないうちに栞を挟んだまま開かなくなる...というのを繰り返していた。
しょっぱなから長くて難しい漢字名の神様がたくさん出てくるうえ、話が荒唐無稽なので、相当読みにくい。
現代語訳を読むにしても誰の訳がいいのかいまひとつ分からないまま、「ここまで来たらもう一生読むことはないんだろうな...」と思っていたところへ、町田康のこの本が出たのだった。

出版社のHPで試し読みができるので読んでみたところ、これがめちゃくちゃ面白い。
たとえば最初の、神様が日本の国土を作っていくあたり。
古事記では、日本国土はもともと水に浮いた油のように海面を漂っていて、それをしっかりした国土にしたのが伊耶那岐命(いざなぎのみこと)と伊耶那美命(いざなみのみこと)、ということになっている。
神々が集まって話し合いをする様子は、こんな感じ。

天つ神は、「この浮遊するブヨブヨのところ、もっとちゃんとしたらいいのと違うか。国として成立するようにしたら」
「いいね」
「でも誰がする」
伊耶那岐命と伊耶那美命にやらせたらどうだろうか」
「いいね。そうしよう」

因幡の白兎と大国主神(おおくにぬしのかみ)が話すあたりなんか、声を出して笑ってしまった。

「海に、サメって居てるじゃないですかあ」
「ああ、居るね」
「あいつら、騙して渡ったろ、と思たんですよ。あいつらアホなんで」
「騙す、ってどうすんの」
「まず、海辺に行ってね、『おーい、サメ。』って言うんです」
「なんで」
「まず、サメ、呼ぶんですよ」
「そんなんで来るか?」
「それが来よんですよ、アホなんで。それで、来たサメにね、『君らの仲間、どれくらい居るか知らないけど、僕ら兎よかはだいぶんと少ないよね、はは。』って言う」
「そうするとどうなった」
「するとね、サメが怒って、『アホンダラ、わしらの方が多いわい。』と言った、そこで僕が、『じゃあ、比べてみようじゃないか。仲間を集め給えよ。』と言うと、アホなんで熱くなって、『集めたら、ぼけ。』と言って仲間を集めたんでね、『はいじゃあ、僕が数えるんで、気多の岬の方にずらっと整列してください。』と言って、並ばせて、その背中を踏んで、ひいっ、ふうっ、みいよおっ、と数えるふりして、こっちに渡ってきたんです」

と、全編こんな具合で、とにかく読みやすい。
大阪弁ネイティブなら、あっという間に読めてしまうのではないだろうか。

そう思うと、世の中の本って、標準語ネイティブ(?)とそうでない人とで、読みやすさが実はめちゃくちゃ違っているのかもなぁと思う。
本って、というか書き言葉って、そういうものと思い込んでしまっているけれど。

そういえば甥っ子が小さい頃、ふと思い付いて絵本を大阪弁で読み聞かせしてみたことがあった。
というのも、私は(いまだに)読み聞かせが苦手で、なぜかものすごく疲れるのだ。
それってもしかしたら、標準語の文体が声に出して読みにくいからでは?と思って、試しにイントネーションを大阪弁で読んでみると、やっぱり疲れ方がずいぶん違う。
普通にしゃべっている感じに近いからか、声を張る必要がないというか。
ただ、書き言葉の文体には大阪弁にない部分がたくさんあるので(「~ない」とか。大阪弁だと「~へん(ひん)」)、それならいっそ...と文体とセリフを勝手に大阪弁にして『おおかみと七匹の子ヤギ』を読んでみたところ、これが甥っ子に大ウケした。
甥っ子のみならず、横で聞いていた姉にも大ウケ。
「もっかいやって!」と何度もリクエストを受けた。

不思議なもので、あんなに挫折した古事記も、町田康大阪弁文体でけっこうあっという間に読めてしまった。
考えてみれば、古事記ってもともと口述なんだよなぁ。
他の読みにくい古典も、町田康訳で出してくれないかなぁ。