メタボリックな実家たち

お彼岸は義父の墓参りへ。

お盆は私は夫実家に行かなかったので、今回は夫実家の他、夫のいとこに生まれた赤ちゃんを見に行ったり、お墓近くの親戚の家へ顔を見せに行ったりして、計四ヶ所の人の家にお邪魔することとなった。

そのすべてで、改めて思ったことがある。
とにかく、物が多いということ。

今回訪れた家々は、すべて「長年誰かが生まれ育った、何十年の蓄積がある実家」だったからというのもあるけれど、とにかく物の多さに頭がクラクラとした。
家族の人数が多かった時代の、五つセットぐらいの食器の数々。
酒造メーカーのロゴの入った、おまけのグラスの数々。
埃をかぶった古い古い置き物たち。
見た目をきれいにする目隠しだったはずが、それ自体埃をかぶって放置されている布やレースのカバー。
再利用されているためにデザインがまちまちで、文字や色の情報が多すぎるお菓子の缶や箱。
長年使ってクタクタになってもはやクッション性があるのか分からない(けれど椅子に設置されたままの)座布団。
あちこちに貼られたもらいもののカレンダー(もちろんテイストはバラバラ)。
新しい椅子を買ったけれど特に処分されないままの古い椅子。
そんなに要るのか疑問な枚数のタオル。しかももうペッタンコ。

いちいち挙げればキリがないこれらの物物は、もちろん私の実家にもあるもので、きっと日本中の実家という実家に蓄積されているものでもある。

何年か前、実家のそういう物たちを、親の死後すべて私たちきょうだいが仕分けして処分しなくてはならないことを考えて気が遠くなり、母に「とにかく徐々にでも物を減らしてくれ」とくどくど言ったことがある。
実家のほとんどのスペースは物たちのためにあり、母一人が生活するスペースや使う物なんて、ほんのわずかだった。
私は長年独り暮らしをしていたから、独り暮らしに必要な物の量は分かる。
「一人にこんなにたくさんの物は必要ない、終活だと思って捨ててくれ」とまだ60代になるかならないかの母に言うと、「もう私を殺す気か」と文句を言いつつも、けっこう多くの物を捨ててくれた。
それでもまだまだ疑問な量の物が残ってはいるけれど、あのとき強く言っておいて、本当に良かったなぁと思っている。

夫実家の、いつかは来る義母亡き後の整理のことを思うと、今から頭が痛い。
私は基本的にはノータッチのつもりでいるけれど、そうすると逆に「家族だからこそ捨てられないもの・見慣れすぎて不要とは思えないもの」ばかりになりそうで。


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お彼岸前の秋の空。
カメラを向けたら偶然、蝶々が写り込んでいた。