まるごと谷が消えた街

六本木周辺の土地を次々開発していくことで有名なディベロッパーM社が、また新たな巨大ビルをオープンさせたと知ったのは昨年秋のこと。
あのあたりにそんな大きな土地なんてあったっけ...?と確かめてみたら、かつて迷い込んでその不思議な雰囲気に魅了された大きな窪地が、谷まるごとその巨大ビルになったのだと知って驚愕した。
あの不思議な谷底が、またじっくり訪れてみたいと思っていた谷底が、消えてしまったのだ。

その谷地は、かつて働いていた職場からそう遠くない場所にあった。
当時一度行ってみたかったお店があって、午後から出勤の日にお店を訪ねた後、「そういえばこのあたりって全然知らないな」と歩いてみることにした。
Googleマップで調べてみると、周辺には敷地の大きなM社のビルばかりなのに、そこだけぽっかり小さな名もなき建物がこちゃこちゃと並んでいる。
さらに近くには、すごい都心にもかかわらずまとまった敷地があり、宗教施設の名前が表示されている。
興味を惹かれて、そのあたりを散策してみることにしたのだ。

今はそっくり谷ごと消えてしまったそのあたりは、かつて「我善坊谷」と呼ばれていて、その地名で調べると、街歩きをする人にはやはり独特の人気があったようだ。
私が行ったのはたぶん今から十年ほど前で、その頃にはもうM社があたり一帯を買い占めて、最後の立ち退きを待つばかりだったのだろう。
地図上のこちゃこちゃした建物は明らかに空き家になっているものも多く、手入れされていない雑草や木々がはびこって、人の生活が感じられない、ゴーストタウンのような雰囲気を醸していた。
横にある巨大宗教施設の名前がまた恐ろしげな字面なので、谷地であることとも相まって、地面から冷気が這い上がってくるような、何とも言えない雰囲気があったのだった。

先日一人で一日外出する機会があって、ルート的にちょうど行けるチャンスだったので、新しい「ヒルズ」と、その周辺の変わり方を見てみることにした。
「前に歩いたとき、なんで写真を撮っておかなかったんだろう?」と残念に思っていたけれど、今回現地に行って思い出した。
なんだか、写真を撮ってはいけないような不気味さがあって、一人だったこともあって足早に通り抜けたのだ。

新しくできたM社の「ヒルズ」は、植物を模したのか、曲線が多様されたアールヌーボー調(?)の不思議な建物。
よく山道の車道沿いに、土砂崩れ防止に波打つ網状のコンクリート壁が設置されているけれど、あれそっくりだ。
谷地形に沿って作られているから建物内部も高低差があって、地上階から降りたところにまた地上階が現れたりする。

カルティエの看板の向こうに、例の宗教施設の屋根が見える。
異質なものが隣り合っているようでいて、実はそう異質でもないのかもしれない、と思わせる景色。
京都の古いお寺がそこにあるのとは、やっぱり全然違うのだ。

ヒルズ」はオープンしたとはいえ、まだまだ工事中のエリアがたくさんあって、あちこちが通行止めになっていたりする。
地図を見ながら、少しでも開発から取り残されたエリアがあれば、この際行ける限り全部行って見てみることにした。

ヒルズ」のすぐ横に、そこだけ低層民家の一画が。
一部が駐車場になっているところを見ると、ここも遠くない将来、また消えてしまうのだろう。

大通りに出てしまわないよう、小さな路地を選んで歩いていると、地図上にとある写真家の事務所を発見。
名前からして、あの、猫写真で知られる写真家だ。
建物の前まで行ってみると、猫や他の動物モチーフの装飾が施された、可愛いおうちだった。
しかしまぁ、こんなすごい立地にあるんだ...とちょっとびっくりした。
時価が凄そう。

外苑東通りを南に渡り、さらに小さな路地を選んで細かく歩く。
このあたりはとにかく高低差がすごくて、急な坂に「鼬(いたち)坂」「鼠坂」「狸穴(まみあな)坂」といった動物の名前がつけられているのも、また趣深い。
行き止まりというか、どこにも抜けず一周して戻ってくるような小路も多く、住人でもないのに怪しまれるかもとちょっとドキドキしながら歩いた。
古いものが残っているかもという期待通り、有形文化財指定されたアパート(兼ギャラリー?)や、現役で人が住んでいる、古いけれど味のある建物もいくつかあった。

だんだん日も暮れてきて、夜に予定もあったので、散策はここまで。
この日は昼からずっと歩いていたから、この時点でなんと8km以上、15000歩近く歩いていた。

東京の都心が全て巨大ディベロッパーに開発されてしまう前に、自分の足でまた歩きに行きたい。