逃げるは恥ではなく役に立つ

世にも恐ろしい瞬間だった。

数日前の夜のこと。
いつもは夫が朝出勤前に掃除して夜には乾いている風呂場の床が、その日は夫が休みで洗うのが入る直前になり、床が濡れて滑りやすくなっていた。
そのうえ洗剤を流しきれていなかったらしく、一番風呂に入ろうと足を踏み入れた私は一瞬で足をとられ、アッと思ったけれどもうどうしようもなかった。
後ろ向きに転ぶのはまずいと咄嗟に思ったのか、体の向きを変え膝を立ててお腹を庇ったけれど、手はうまく間に合わなくて膝を立てたまま顔から床に着いた。着いたところがドアの桟だった。
血が出ているかと口の中を舐めた瞬間、前歯が折れているのが分かった。

衝撃だった。
お腹は幸い、膝を立てたのと脂肪のクッションで無事だったけれど、四十年近くつき合ってきた身体の一部が一瞬にして失われたショックはすごくて、その後しばらくは歯のことしか考えられなくなった。

運悪く、かかりつけの歯医者は翌日が定休日。
一、二度行ったことのある歯医者は他にあったけれど、以前行ったときになんとなく違和感があったこともあって後の方の選択肢に回し、明朝すぐに受診できる歯医者をいくつか調べた。
ほとんど眠れない夜を過ごし、朝になるとすぐに第一候補の歯医者に電話したら、とても冷たい声の受付に「早くても二日後になる」と言われ、前歯が折れて緊急だと説明するも「急患は受け付けていないので」と本当に冷たくあしらわれ、そこで既に心が折れてしまった。
第二候補も初めてのところだったので、また同じ対応をされたらと思うと腰が引け、一度行ったところならレントゲンも残っているし急患にも対応してくれるかもと、後回しにした候補に電話したら、他の予約の合間に受けてくれるとのこと。
ホッとして向かったのだけれど、これがさらなる悲劇の始まりだった。

他の予約の合間だったこともあるのか、それとも折れた歯のことは見れば分かるからか、ろくに話も聞かないで始まった応急処置。
そこまでは普通だったものの、最後の噛み合わせ調整でいきなり怒鳴りつけられた。
医者が言ったような噛み方をしなかったことを怒鳴られたのだけれど、その噛み方は痛くてできないと言うと、突然「それは最初に言わないといけない!」とさらに怒鳴られる。
関連することは最初に言ったのだけれど、「聞いてない!」の一点張り。
だってあなたろくに聞かずに処置始めたじゃない...と思いながら、じゃあ詳しく説明した方がいいのかと説明しかけたら、遮って「今日はもう時間がないからできない、次の予約を取って!」と言い捨て、隣の患者コーナーへ。
呆気にとられつつ、衛生士さんに気になったことを少し聞こうとしたら、戻ってきて口を挟んでくる。
これは今何を言っても仕方ないなと、待合室に戻って次の予約を取っていたら、また(他の患者の治療中なのに)受付までやってきて、「さっきの件は聞いていない。最初に言わないといけない」と繰り返す。
私が「最初にかくかく然々と言ったんですけど」と言うと「いや、聞いてない!」とまた声を荒げる。

あぁ、これはヤバいやつだ...と、ここへ来てやっと理解した私。
以前感じた些細な違和感も、実はこれに関連していたのだと、ようやくつながってきた。

以前の違和感というのは、とにかく予約の取り方が独特なのだ。
普通は受付に任せるようなところを、受付が逐一治療中の医者に確認に来る。その都度細かい修正が入る。
今回私が次の予約を取るときも、何度も受付が治療中の医者と往復して、その都度他の候補日を聞かれ、また受付が医者に確認し...を繰り返して、ようやく決まったのだ。
要するに、すべて自分の支配下に置きたい人間、他人が自分の思惑と違う動きをするのが我慢ならない人間なのだ。
だから、「聞いてない」(と本人が思う)ことにあそこまで異常に反応するのだ。

聞く耳を持たず相手(しかも患者)を恫喝するような、それも普段の態度から豹変してそういうことをするような人間は、DV男と同じで、よほどのことがない限り変わることはない。
そういう人間から身を守る最良の選択肢は、「とにかく近寄らないこと」だ。
知らずに近づいてしまった場合には、「気づいた時点で全速力で逃げること」だ。
それしかない。

これまでの人生で何人かそういう人間に出くわして、何度か失敗を重ねて、そのことを痛感するようになった。
「ヤバい人間から逃げる素振りを見せると、余計ヤバいことになるのではないか」と躊躇って逃げ遅れたことが何度かあるのだけれど、それはさらなる傷を負うことにしかならない。
ヤバい人間からは、とにかく一刻も早く逃げなくてはならないのだ。
その一瞬の判断で、傷の治りが数年違ってくることだってある。

結局私は、以前のかかりつけ(と言っても今は遠方になったところ)に途中から治療をお願いし、ヤバい歯医者の予約はその後すぐにキャンセルしたのだった。

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写真は、折れる前の歯で食べた(結果的に)最後となった食事。