あれから何度目かの満月

しばらく前のこと。

そろそろ夫が帰ってくるので晩ごはんを温め始めていたら、近くに救急車の音が聞こえてきて止まった。
最近の救急車は住宅街では音を早めに小さくするから、そんなに近くないと思っていてもけっこう近くだったりすることがある。
以前、同じくらいの音の大きさでけっこう近くだったことがあるので、もしかしたらまたそうかもしれないなとベランダに出てみたら、果たして眼下の、少し先の広めのスペースで、救急車と消防車が停まっているのが見えたのだった。

とは言え、かなり戸数の多い集合住宅なのでどこかまでは分からない。
もうすぐ最寄りのバス停に着く夫にメールをして、「かくかくしかじかなので帰りにちょっと見てきて」「了解」というやり取りをした数分後、夫からメールが入った。
そろそろ家に着く頃なのにわざわざ何だろう、と思ってメールを見ると「お隣です。。外に出てきて」とある。
仰天して、子どもたちに気づかれないよう、TVの音に紛れるようにしてそっと玄関のドアを開けた。

開ける前から、ドアの外がざわざわしているのが分かった。
ドアを開けると、外廊下に何人もの救急隊員、よく見ると警察官もいて、その向こうに足止めされた夫がこっちを見ているのが見えた。
お隣の部屋はかなり高齢の老夫婦で、その部屋のドアが開けられていて、廊下には担架が二台。
...え?二台?しかも、警察?

どういうこと...と胸がざわざわしていると、夫が救急隊員の間を縫うようにしてこちらへやってきた。
二人でしばらく見守っていたけれど、あまりに長く外にいると子どもたちが気づいて出てきてしまう。
二人で部屋に戻り、子どもたちの前では何事もなかったかのように振る舞いつつ、ドキドキしながらもいつもの夜のルーティンをこなしていった。

とはいえ、その後もかなり長いこと人がいてあまりにも気になるので、時々様子をうかがっていたら、なんとなく事の次第が見えてきた。

おそらく、ご夫婦のどちらかが亡くなって、もう一人はそれを外部に知らせることができない状態だったのだ。
どういう理由でかは分からない。
ただ、ご夫婦の一人が日中介護サービスを利用している姿を時々見かけたことがあったから、おそらくお元気だった方が高齢で亡くなって、介護が必要な方が残されたのだと思う。
漏れ聞こえたところでは、どうやら新聞屋さんが気づいてどこかに通報したことで、発見に至ったようだった。

それから数日間は、心がざわざわして落ち着かなかった。
物理的には一番近くにいたのに、何も気づけなかった、何もできなかった不甲斐なさ。
何度か見かけたりした姿や、時々交わした挨拶のこと。
最後にお話ししたのは、亡くなる二ヶ月ほど前の満月の夜だった。
玄関先でお隣が月を見ているところに私がたまたま帰ってきて、「今日はきれいな満月ですねぇ」と言葉を交わしたのだ。
騒ぎがあった夜も、救急隊員が帰ったあと空をふと見上げたら、あの日とほぼ同じ位置に満月が出ていた。

その後しばらくして、離れて暮らす身内の方がわざわざ挨拶に来られた。
いろいろお騒がせして...とお菓子を持って挨拶に来られたのだけれど、こちらこそ、何もできなくてすみません、申し訳ありませんという気持ちでいっぱいだった。
ご夫婦ともかなり高齢だったこともあってか、身内の方が落ち着いていたのがまだ救いだった。

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もうすぐ、あれから何度目かの満月がやってくる。
亡くなったお隣さんは、今は空で満月を楽しんでいるだろうか。