雪解けの季節

息子の習い事を迎えに行くまでの間、ほんの30-40分、何をするでもなくボーッとひと息つく。
秋に習い事を始めてから日がどんどん短くなり、迎えに出る頃にはもうすっかり暮れていたのが、近頃は帰って来てもまだうっすらと空は明るくて、あぁ、春の日差しだと思う。
冬は終わったのだ。

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季節のせいと、最近仕事で似た人に会ったせいで、このところよく昔の上司のことを思い出している。
もう十年以上前。
一緒に働いていたのはほんの少しの年数だったけれど、私にとっては忘れられない、このうえなく相性のいい上司だった。
車を持っていなかった私は、いつもちょっとした出張のとき職場の誰かに同乗させてもらっていたのだけれど、いつしかほとんどいつもその上司に乗せてもらうようになっていた。
仕事上の打ち合わせがその人と一番多かったから、車内で打ち合わせを兼ねて、というのもあったけれど、結局は一番相性が良かったからだと思う。
車内ではいつも、共通の上司や同僚、仕事上のいろんな人の話や、そのときいた地方の話(二人ともその地方が嫌いだった)、たまにお互いのプライベートで行った場所の話、家族の話なんかを、ずぅっと途切れなく話していた。
彼は私のことをとても買ってくれていて、私の話をいつも面白い、面白いと大ウケしながら聞いてくれるものだから、調子に乗って上司であることを忘れないよう気をつけながらも、年を追うごとに私の話しぶりは「地」に近くなっていった。
その(ちょっとブラックな)私の「地」の部分を彼がまた面白がってくれて、私がいつも困った同僚Xの話をするときに言う「知らんがな」というセリフが、いつの間にか彼にもうつって「知らんがな、って(Xに)思った」と言うようになったから、私はいまだに「知らんがな」を使うと彼のことを思い出す。
彼の語彙にもきっと「知らんがな」が入れられたから、もしかしたらいまだに使っているかもしれないなぁ...と。

そんな蜜月関係を破ったのは、私だった。
もちろん、彼との関係を壊したくてそうしたのではない。
自分の人生の先を考えて、誰にも内緒で、極秘裏に転職活動をして、そして転職が決まってから退職を告げたのだ。

その数ヶ月前、たまたま仕事のイベント帰りに二人で飲んだとき、私は彼から「辞めないでくださいね」と冗談半分、本気半分に言われていた。
そのときには私はもう、遠からずその職場を去るつもりでいたから、彼にそう言われて「大丈夫です!」と言う訳にもいかず、かと言って辞めたいと言う訳にもいかず、苦笑して「そうですねぇ...まぁ頑張ります」と言うしかなかった。
彼もその職場を辞めたいと思っている(けど諸事情で思い留まっていた)のを知っていたから、下手に自分が辞めたいと言うと、先に辞められて一人残されてしまうんじゃないか、という思いもあった。
それぐらい、その職場はもう泥舟だったのだ。
彼は優秀な人だったし、いくらでも転職先はありそうだったから、私が辞めると言い出したらきっとすぐに自分も脱け出そうとしそうだったし、クッション役の彼がいなくなったら、私はかなりしんどい立場に立たされることは目に見えていた。

実際、私が辞めた一年後に、彼は前から誘われていたところへ転職を決めた。
最後の引き金を引いたのはやっぱり私の退職だったと、聞いたのは退職から一年経った春のことだった。
私の退職は急だったから業務を滞りなく引き継ぐことに精一杯で、彼ともその後ゆっくり話す機会がなく、一年経ってようやく、その機会を彼が作ってくれたのだ。
雪解けだった。

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それから後も一度だけ、彼に頼まれて転職先の知り合いにつなぐために、彼や彼の新しい同僚と会う機会があった。
それも確か、春先のことだった。
それから年賀状のやり取りが数年続いた後、お互い忙しくて彼とはだんだん間遠になっていった。
今ではもう、連絡を取ることもない。

時々こうして思い出して、あぁ、彼はどうしているかな、会いたいな...と思う。
だけどたぶん、本当に会いたいのは彼ではないのだ。
彼とドライブしながら無駄話をしていたあの時間。
無駄話をしながら、車窓を流れていくパッとしない地方の景色を眺めながら、自分の人生の行く先について絶えず考えていたあの頃の自分。
会いたいのは、たぶんあの頃の私なのだ。