祈ることしかできない

コロナ禍でずっと休業中だったお気に入りのお店が、期間限定で営業すると知って、久しぶりに出かけたのは土曜日のことだった。
最後に行ったのは一年以上前。
一人の時間を過ごすのにとてもいい場所で、いつものように手帳を取り出して考えを書き出したり、店内にある本を読んだり、スマホでネットを見たりしながら、束の間のゆっくりした時間を過ごしていた。

数時間ぶりになんとなく見ていたYahoo!のサイトか何かで、知床の観光船が消息を断っているというニュースを知ったのは、窓の外が暗くなり、街灯が灯り始める時間のことだった。
「遊覧船」という言葉の響きもあったのだろう。そのときは深く考えずに、ネットを閉じてまた作業に戻ってしまったのだった。

その日からずっと、胸が塞がるような気持ちでいる。
たぶん日本中のほとんどの人が、この数日そんな気持ちでいるんじゃないかと思うけれど、あまりに辛いせいか、日々会う人々の間で話題になることは不思議なくらい、ない。
私も、話題にすることはない。
たぶんそれぐらい、誰もにとって辛すぎる出来事なのだ。

夫とは話をする中で、夫もいつかこのルートの観光船に乗ってみたいと思っていたことを知った。
何年か前、知床のほんの一部だけを観光で回った私も、次に来るときは、と思っていた。
そう。
だから他人事とは思えない、全く。
私たち家族が当事者になることだって、十分すぎるぐらいあったのだ。

今はニュースで報じられる、地元の人たちの懸命な気持ちだけが救いだ。
どうか彼の地に、神のご加護がありますように。
知床の人々の生活が守られ、深い傷が時間をかけて守られ手当てされ、遠く離れた地の人々の思いも、彼の地に降り注ぎますように。

今はそう祈ることしかできない。