母は瀕死

子どもがいない独身の頃、公園で子どもが遊ぶのを見ながらおしゃべりしているお母さんたちは、専業主婦だから時間に余裕があるのだろうとなんとなく思っていた。
同じく、彼女たちがよくドラマを見たり、スマホでこまめに情報を得ているのも、仕事をしていないから時間に余裕があるのだと思っていた。
そのどちらもがとんでもない思い違いだと知ったのは、ほんのここ数年のことだ。

そのことをまず悟ったのは、授乳期間だった。
ドラマを見たり、スマホを見たりするのはヒマだからではない。断じてない。
「それしかできることがない」からだ。
乳幼児を育てている期間というのは、とにかくすべての行いが分断される。
やれこれを見ろ、やれお茶をくれ、やれきょうだい喧嘩だ、やれおなかがすいた、やれ一緒にお料理をやりたい、やれ一緒に遊べetc.etc.。
仮にまとまった時間ができたとしても、それは「たまたま今日はお昼寝を二時間してくれた」とかいう「結果的な二時間」であって、「あらかじめ分かっていたまとまった時間」では決してない。
30分で起きるかもしれない、だから「最長でも30分以内にひと区切りつけられることを」と思って作業を始める。
30分後、「あれ?まだ寝てくれてるな。でもそろそろ起きるかもしれないから、30分ぐらいで区切りがつけられることを」と思って作業を始める(以下繰り返し)。
けれど「30分以内でひと区切りつけられて、かついつでも分断されていい作業」なんて、そうそうたくさんはない。
結果、「TVを見る」とか「スマホを見る」ぐらいしか、できることがなくなるのだ。

公園でのおしゃべりもそうだ。
お母さんたちがおしゃべりしているのは、ヒマだからではない。断じてない。
「それしかできることがない」からだ。
怪我をしそうな遊び方をしていないか。
お友達に乱暴をしそうになっていないか。
小競り合いは起きていないか。
泥だらけの手を口に入れようとしていないか。
落ちている汚いものを分解したりしていないか。
大きい子どもたち(小学生)が来ているときは、自分の子に加え、大きい子どもたちの動きにも注意していなくてはいけない。
さらに子どもたちはひとところになんてとどまっていない。ちょっと目を離した隙に視界から消える。
そんな状況では、同じ状況に置かれた大人(つまりお母さん)としゃべるぐらいしか、できることがないのだ。
目は子どもを見ているから、耳と口でできること、つまりおしゃべりぐらいしかないのだ。
しかも「いつでも分断されていい話題」という縛り付きで。
さらに、年齢の異なるきょうだいを一人で見ながら公園で遊ばせるのは、もうこれは本当に重労働だ。

暑さ、寒さ、風、花粉、あらゆる屋外ストレスに曝されつつ、動き回る子どもに危険がないかをウォッチしながら数時間外にいるというのは、道路工事の誘導員(←やったことある)ぐらいの労働には匹敵すると思う。
それが、「カラフルな遊具」「子ども」「女性」「おしゃべり」という見た目のほのぼの要素のために、「時間に余裕のある専業主婦のお母さんたち」という、実態とはかけ離れたイメージになってしまうのだ。
時間に余裕があるどころか、公園につき合っている間は(当然だけど)すべての家事がストップしているので、その前後にすごい皺寄せが行っているのだけれど。
公園にいるお母さんたちには、その時間の疲労に加えて、早送りで家事をこなす疲労も加わっているのだ。

何が言いたいかというと、春休み、二人の幼児に連日外につき合わされて、瀕死というお話。