狭まる人と広がる人

学生時代の友人が所用で来京していた。
少し前に「会えないかな?」という連絡をもらったものの、あまりに短時間になってしまうのでためらっていたら、なかなか会える機会もないからと、わざわざ近くまで会いに来てくれたのだった。
現地集合、現地解散で一時間ちょっとという短い時間だったけれど、密度の濃いひとときを過ごした。

いろんな話をした中で、彼女が最近すごく引っかかっていたという、ある人(Aさん)についての話を聞いた。
少しぼかして書くと、彼女は久しぶりに会ったAさんの態度に違和感を感じたそうで、それは自分が思っていたAさんとの関係(距離)が、Aさんにとっては違っていたのかもしれない...というような内容だった。
Aさんのことは私も知っているのだけれど、彼女が違和感を感じた態度というのは、私からすると「さもありなん」というものだった。
でもそれは、Aさんという人が生きてる「世界の狭さの問題だと思うよ」というのが私の意見だった。
「彼女との関係」の問題ではなくて。
彼女は以前はAさんと近しい立場にいたのだけれど、今は少し違った立場にいる。
今回彼女が違和感を感じたAさんの反応というのは、あくまで自分(Aさん)と近しい立場で「また会えたらいいね」という挨拶だったようで、立場云々関係なくつながっていると思っていた彼女にとって、それはちょっとショックだった...ということのようだった。

Aさんのことを久しぶりに聞いて、そうだったな...と思い出した。
私はAさんの「世界の狭さ」が、ものすごく苦手だった。
話をしていると、すべてがAさんの「知っている範疇の話」に回収されてしまう感じがあって、だんだん疲れ、気が滅入ってくるのだ。
同じような人が他にいたことも思い出した。
私が何か、新しく発見したことや感心したことを言っても、「それは○○ってことだよね」とか「同じような話で○○ということがあったわー」と、「その人の知っている話」に回収されていくのだ。
「全然違う!」と毎回その的外れさに驚き、伝えてもみたけれど、それが全然違う話だということはピンと来ないようで、延々「知っている話」に回収されていくので、だんだん疲れ、「そうだね~(無の表情)」と適当に話を合わせるようになった。

そういう、「話が回収されていく」タイプの人が、自分は苦手なんだろうなと思う。
もしかしたら、そういう人は「知っている話」に回収していくことで、安心感を得るのかもしれない。
けれど私は、そういう人と話しているとどんどん気が滅入ってきてしまう。
逆に、話していて「関係ないんだけどさ~」と話が飛んだり、「○○と言えば...」とちょっと違う話に広がっていく人とは、長時間楽しく話していられる。

昔からの友人や知人には、久々に会うと、関係性がはっきり見えてくるということがあるように思う。
どんなに何年会っていなくても、会えばすぐ深い話や本質的な話をできる相手もいれば、ある時期毎日のように会って何かしら話していたのに、久しぶりに会うとぎこちない、社交辞令的に終わってしまう相手もいる。
そのことになんとなく気づいてからは、私は心地よい人としか会わなくなってしまった。
人間関係を狭めていくことになるかもしれないけれど、こうしてわざわざ少しの時間を合わせて会おうとしてくれる友人もいて、それはとてもありがたい、人生を豊かにしてくれることだ。

人生も折り返し地点を過ぎて、できるだけ心地よいこと、本当にしたいことだけを選んでしていきたい、と思うようになった。
それでも、やらねばならないことは山のようにあるのだから。
一緒にいて楽しくない人のために割いている時間は、人生にもう残されていない。