松本のおばちゃんのこと

近所のお料理上手マダムFさんにまたまた招かれて、春のお手製ごはんをごちそうになった。

夫の好物だという、新玉ねぎのそぼろあんかけ。
私が初めてFさんに会う前から、夫に聞かされていた一品だった。

Fさんはもともと夫の独身時代からの知り合いで、結婚して少し経った頃から、私も一緒に時々会うようになった。
縁あってFさんの住まい近くに引っ越してからは、会う機会も増え、子どもたちもすっかり懐いている。
私たち夫婦からすると、親かそれより少し上ぐらいの老婦人なのだけれど、頭がとにかく柔らかく聡明で、お話していてとても楽しい人なのだった。

子どもたちからすると、おばあちゃんのような存在だけれど親戚ではない、という不思議な関係。
でも、思い返せば私にも、小さい頃似たような存在の人がいたのだった。

その人のことを、私たちは「松本のおばちゃん」と呼んでいた。
松本のおばちゃんは父親の独身時代からの知り合いで(思えばこれもFさんと同じだ)、結婚してからは母親とも一緒に会うようになり、私たち子どもが生まれてからは、むしろ母と一緒におばちゃんに会うことの方が多くなった。
松本のおばちゃんは、当時の大阪の片田舎にしては珍しい「東京の人」で、うちの母は「東京弁の、知的でさっぱりした人」としておばちゃんのことを慕っていた。
確かにおばちゃんにはグチグチしたところがなく、はっきり物を言う、さっぱりした人だったような記憶がある。
祖母と対極的なその年配の婦人が、幼子を抱えて義実家と密に関わらざるを得なかったその頃の母にとっては、きっと救いだったんだろうなと、今の私は想像する。

私たち姉妹が好きだったのは、松本のおばちゃんの家だった。
大人になった今も時々話題に上るほど、その家はちょっと変わった建物だった。
小さな商店街に面した家は、当時でも十分古い木造の狭小住宅で、確か玄関の引き戸を開けるともうすぐ茶の間になっているような造りだった。
その茶の間には掘り炬燵があって、私たちはいつもそこで肩を寄せ合うようにしながらおしゃべりしていた。
幼稚園児だった私には掘り炬燵は足が届かないほど深くて、もし落ちてしまったら抜け出せないんじゃないかという、ちょっとした恐怖があった。
一階はたぶん台所と茶の間しかなく、梯子のような急な階段の上に、おそらく一階と同じくらいの広さの部屋があった。
その梯子といい、掘り炬燵といい、幼稚園児にとっては「下は深く、上は高い」家、洞窟のようなワクワクする場所だった。
柱にはヘビの形をした貯金箱が掛かっていて(当時流行っていたのかもしれない)、硬貨がヘビの形になってクネクネ貯まっていく仕組みになっていた。
松本のおばちゃんには血のつながらない三人の子どもがいて、おばちゃんは末の娘であるカヨちゃんと、その小さなおうちで同居していた。
娘と言ってもたぶん当時40代ぐらいで、器量はあまり良くないけれど気立てはとても良さそうな、ほとんど声を聞いたことのない控えめな独身女性だった。
私たちがお邪魔していると時々外からカヨちゃんが帰ってきて、ごゆっくり、という感じで微笑んで、梯子のような急な階段を上っていくのだった。

私たち姉妹は松本のおばちゃんのことが大好きだった。
たぶんその理由のひとつは、おばちゃんが私たちに会うときにいつも必ず、ちょっとしたおもちゃを持ってきてくれるからなのだけれど、おばちゃんのくれるおもちゃは紙風船とか千代紙とか、何か品のあるものが多くて、松本のおばちゃんイコール「玉手箱」とか「宝箱」みたいなイメージだった。

そんな松本のおばちゃんとの別れは突然やってきた。
その少し前から、おばちゃんは何かの病気で入院し、一、二度お見舞いに行ったときは子ども心に「別の人になってしまった」と怖さを覚えるほどのやつれようだったのだけれど、それでもそんなに早い別れは予期していなくて、あまりに突然のことだった。

その日曜日、私たちは家族で確か奈良公園に行こうとしていた。
いつものように車を走らせ、商店街のおばちゃんの家の前に差し掛かったとき、父か母が「えぇっ!!」と悲鳴のような声を上げて、車に急にブレーキがかけられた。
おばちゃんの家に、黒と白の幕がかかっていたのだ。

その日のおでかけは、もちろん中止になった。

後で聞いたところでは、おばちゃんの息子さん(この人も私たち家族と顔見知りだった)はおばちゃんの訃報を知らせようとしてくれたのだけれど、当時は固定電話しかなく留守番電話もない時代、何らかの理由で電話がつながらなかったか家も留守だったかで、とにかく連絡が間に合わなかったのだそうだ。
今と違って、亡くなってからお葬式までの日数も短い時代だった。

おばちゃんが亡くなってから、しばらくは息子さんとも時々連絡していたようだけれど、それも自然と途絶え、松本のおばちゃんのことは私たち家族の中で「昔のちょっとした知り合い」という位置付けになっていった。

それでも、私たち姉妹の間では「松本のおばちゃん」は今も語り継がれている。
親戚でも先生でもない、知り合いの老婦人。
ただその人が好きでつながっている、「友達」のような老婦人だった。
そういう人が幼い日々にいたことは、私の人生を確実に豊かにしてくれていたな、と思う。

今でも思い出すのは、深い掘り炬燵のある不思議な家と、おもちゃを持ってきてくれる、宝箱のようなおばちゃんのイメージだ。
おばちゃんの家の近くにあった、縁日の出る小さな社のこととか、危ないから近づかないように言われていた溜め池なんかもうっすら覚えていて、いまだに時々夢に見る。

今の長男はあの頃の私ぐらいの年齢で、だからFさんのこともきっとずっと覚えているだろう。
Fさんはまだまだ長生きしてくれそうだけれど。
私にとっての松本のおばちゃんのような人が、子どもたちの人生にもいてくれることが、なんだかとても嬉しい。