塩の教え/骨董レベル

秋はイベントが忙しい。
そんな合間を縫って、お料理上手マダムFさんに、またまた手作りディナーをごちそうになってきた。

前菜(?)は、茶碗蒸し、ひじきと野菜のマリネ、さつまいもと人参のかき揚げ。
このかき揚げは以前にも何度かいただいたことがあるけれど、サックサクで絶品。
たぶん、野菜の切り方がいいのだろう。
さつまいも天のもっさりした感じが全然なく、いくらでも食べられてしまう。
子どもたちもいつもお代わりで、これだけでお腹を満たしてしまうぐらい、大好きなメニューなのだった。

茶碗蒸しは大きな器に蒸してあるのを取り分けるスタイル。
もともと茶碗蒸しは大好物の私だけれど、この茶碗蒸しはちょっと記憶に残る美味しさだった。
出汁の利いた生地に、小さく刻んだ海老が入っていて、そのプチプチした歯ごたえがアクセントになっている。
生地もとにかく美味しくて、何だろうと推測しながら食べたのだけれど、もしかすると塩かな?と思った。
塩分ってとかく控えめにしがちだけれど、入れるべき量をちゃんと入れると、味がグッと美味しくなるというか、輪郭が引き締まることがある。
Fさんの茶碗蒸しはそんな、入れるべき量がちゃんと入っている感じの味だった。

昔ちょっとだけフレンチのビストロでバイトしていたとき、雑談の合間にシェフに教わった知識の中で、たぶん一番役に立っているのがこの「塩」の話だ。
あるときシェフが何かを作りながら味見して、「?なんか足らんな」と言いながら塩をひとつまみ入れた。
「やっぱりそんなんパッと分かるんですね、何が足りないか」と言った私に、「ん~、まぁせやな。たいがい塩やな」とシェフは言った。
「なんか足らんなと思って、その味をそのまんま、味を変えずに強めたいときは、たいがい塩やねん」と教えてくれたのだ。

そのときは「へぇ...」と思っただけだったけれど、これは、実はかなり的確なアドバイスだった。
自分が料理をするようになってから、何度思い出したか分からない。
「味を変えずに強めたいときは塩」、諺にしといてもいいぐらいだ(諺にしてはひねりがなさすぎ)。

そして、この日のメインは鶏とカシューナッツとピーマンの炒めもの。
これもまぁ、本当に美味しかった。
冷めてもそれはそれで美味しくて、大人たちはこれをつまみながら、ダラダラとビールやワインを飲み続けたのだった。

この日お招きいただいたのは、Fさんに夫が頼まれていた、玉子焼き器の修理のお礼だった。
何ヵ月も前、Fさんの玉子焼き器の取っ手が長年の使用で少しずつ焦げてグラグラしていたのを、締め直せるかしらと訊かれたのだ。
Fさんが、子どもたちのお弁当にも頻繁な来客にもずっと使い続けてきた玉子焼き器は、それはそれは年季が入ったもので、古道具屋なんかにあったらいい値がつくんじゃないだろうかという立派な代物だった。

これは焦げているわけではなく、油がよく染みて黒くなったもので、全然焦げ付かないのだそう。
鉄かと思ったら銅で、銅がこんな色になるくらい、何千回(何万回?)と使われてきたのだ。
私があまりに何度もこの玉子焼き器を褒めるからか、Fさんは申し訳なさそうに「これねぇ、予約済みなのよ、ごめんなさいね。姪っ子が、私が死んだらくれって(笑)そうじゃなかったらあげるんだけど」と言うのだった。
いや、それはそうでしょう!
これは絶対捨てちゃいけないやつだ。

取っ手は、焦げた部分を少しずつ削りながら使っていたそうなのだけれど、さすがにこれ以上削ると限界だということで、夫が応急処置をしてから、ネットで適当な柄を見繕っていたのだった。
そして先日、ようやく新しい取っ手が取り付けられた。
そのお礼として、ごちそうに招かれたのだ。
夫、グッジョブ。

いつか、この玉子焼き器で出汁巻き玉子を作るところを見せてもらいたいな。